なぜ、1603年か。江戸・三河・津軽 ―― 三つの土地が、一本の扇子でつながる物語。
1603年、徳川家康が江戸に幕府を開きました。故郷・三河からは多くの職人が江戸へ移り、のちの「江戸扇子」が育ちます。そして同じころ、北の果ての津軽でも、この年をきっかけに、ひとつの物語が動き出していました。
江戸・三河・津軽。関わりのなさそうな三つの土地が、一本の線でつながっています。

徳川家康の故郷。家康は身内である三河松平の一族を大切にしました。のちに津軽へ嫁ぐ満天姫(まてひめ)も、この一族に生まれます。

1603年、家康が幕府を開きます。三河から来た職人たちが、江戸で扇子づくりを育てました。骨は少なく親骨は太い、一人の職人が全ての工程を担う「江戸扇子」です。

北の小さな藩。関ヶ原で敗れた石田三成の娘・辰姫(たつひめ)が、この津軽家に身を寄せていました。津軽のねぷたは、扇の形をした「扇ねぷた」です。
関ヶ原で、徳川家康と石田三成は天下をかけて争いました。勝った家康は江戸に幕府を開き、負けた三成の一族は各地へ散ります。その二人の血が、北の津軽で出会います。



肖像画はいずれもパブリックドメイン(江戸期の作)。
家康の養女・満天姫(三河松平の血)は、1611年、津軽2代藩主・信枚(のぶひら)に嫁ぎました。一方、三成の娘・辰姫は、同じ信枚の側室として、すでに津軽にいました。やがて、二人の子が生まれます。
家督を継いだのは、三成の孫・信義。弟で家康の孫・信英は、これを支えました。
この和解には、満天姫の存在が大きかったといわれています。
扇子は、開けば末広がり。津軽の扇ねぷたのように、扇には人の志を託す文化がありました。「開くほどに、未来が広がる」――そんな縁起の道具です。
この物語に重ねて、齊藤和治は「和治1603Japan」を立ち上げました。津軽と三河をつなぎ、日本の伝統文化と、受け継ぐべき職人の技術を、次の世代へ。扇の要のように、人と人をつなぐ存在でありたい――その願いを、一本の江戸革扇子に込めています。
過去から未来へ。要となり、風を起こす。— 和治1603Japan 齊藤和治
江戸扇子は、京扇子とは違います。骨は少なく、親骨は太い。そして一人の職人が、全ての工程を担う。開けば「パンッ」と鳴る、その潔さが「粋」です。
その扇子を手がけるのが、江戸扇子マイスターの松井宏。骨づくりから地紙貼りまで、多くの工程を手作業で仕上げます。
ここに、葛飾レザーの革を合わせました。革は使うほどに手へ馴染み、色を深めていきます。表は革、裏は和紙 ―― EDO ALL MADE TOKYO。裏の和紙文様は、お選びのお色ごとに決まります(千歳緑=七宝、烏羽=麻の葉、茜=紗綾形、濃藍=青海波)。職人が一本ずつ仕上げるため、同じ模様は二つとありません。
これは第一稿(叩き台)です。写真・価格・購入導線・ロゴ・問い合わせ先はすべて仮置きで、確定情報が入り次第、差し替えます。文中の歴史記述はブランドストーリーとしての表現を含み、細部には諸説あります。